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事件の経緯及び、詐欺常習者 大島保夫との関係について
株式会社西正建設が倒産する約1年前に株式会社筑紫野建設(福岡市南区井尻3-11-26)代表取締役久保田俊博が「大島さんが正光ちゃんの事が大好きと言うてあるから大島さんに会ってくれんかいな。」と突然言ってきたのです。(関係者組織図)私と久保田俊博の関係は久保田俊博より私が一歳年上で、久保チャン、正光チャンと呼びあう仲でした。それに久保田のお袋さんは私のことを「正光君とか正光さん」と呼び私は「おばちゃん」と呼ぶ間柄でした。大島保夫とは面識はありませんでした。紹介を受け会うようになってからは毎日のように大島保夫から連絡が入るようになりました。
連絡役は久保田俊博で「大島さんが正光ちゃんとマージャンしたい。正光ちゃんの時間でいい」と大島さんが言うとるよ。と連絡が入ると、場所はマージャンミナミ(福岡市中央区天神)に集合してマージャンをしていたのです。メンバーは久保田俊博、大島保夫、久保田俊博の紹介で付き合うようになった原通信建設株式会社の原雅彦と私の4人でした。付き合う時の飲食代等についてはすべて割り勘にしていました。紹介を受けた原雅彦は久保田俊博の友人でもあり、私より二歳年下であったので原チャン、久保チャン、正光チャンと呼びあっていました。

平成10年10月に福岡市水道局発注の水道工事を約3億円で西正建設が受注させて頂きました。その工事の一部の施工を大島保夫が「ウチに工事ばさせちゃんしゃい」と言ってきたので見積りを出してもらうことにしました。大島保夫は西正建設の会社に来たことはありません。マージャンミナミでやり取りをしていました。大島保夫からマージャンミナミで見積りをもらって、その見積りを平成9年に福岡市水道局施設課を退職され非常勤で西正建設に勤務することになった方が調べたら、設計単価の倍の金額でした。大島保夫からマージャンに誘われた時にでも断ろうと考えていました。大島保夫のことは同業者や知人の経営者たちから「大島保夫は朝鮮人ですばい」とか「大島保夫は朝鮮人やが」と聞いていました。マージャンミナミで大島保夫に仕事を断ろうとしたら、大島保夫が頭を下げ土下座寸前の姿で助けを求めますし、「ウチは正光ちゃんのことが大好きで大好きでたまらん。正光ちゃんとメシ喰いたい、正光ちゃんと酒飲みたい、正光ちゃんとマージャンしたい」などと言うものですから、同情して善意で大島保夫の意向の通りにしました。大島保夫から一銭ももらっていません。しかし大島保夫は性根の腐ったことばかり企んでいるとは分からなかったのです。大島保夫に発注した工事金額は設計単価の1500万円で一銭の経費も引いておりません。大島保夫の見積りは背広のポケットに入れたまま自宅にあったものですが、会社に保管していた契約書、見積書は処分されました。また盗聴(3分間)の会話(文章化)で分かるように大島保夫は倒産する1か月前に840万円の請求書を出していますが、現場監督の藤田伸也、福田道子と結託して大島保夫は福田道子に契約金額が1995万円とか見積りに入っている工事を見積りに入っていないとかでたらめな話ばかり西原正夫に言わせております。またこの840万円の請求書も処分させています。最終的に大島保夫は2100万円の債権届を出しています。このように事務員まで抱き込んでいるので、徹底的に手が付けられない状態にしたり、汚れ腐ったことばかりしているのが分かります。

大島保夫は私と藤原定司ともめていたことは知っていましたが、大島保夫と付き合いをしているときは一言も藤原定司のことは口にしませんでした。倒産数日前に大島保夫から福岡市博多区竹下方面のへんぴなところにある焼き肉屋に呼び出されましたので、行ってみると大島保夫は藤原定司と来たのです。店内で大島から「ウチはサダちゃんの一番の子分たい、サダちゃんの言うことは逆らわれん」と言いました。すると藤原定司が命令口調で「ヤスオ、言いやんな」と言いました。西正建設が倒産した翌日朝8時17分に大島保夫から電話があり、子供がはしゃぐような調子で「深夜に伸也(藤田伸也)からウチの監督に倒産した」と様子見の内容でした。その数日後大島保夫から西正建設の銀行印を騙し取られそうになり、大島保夫は奪うことが出来ないと分かったのか、「オレはハゴロモ会(指定暴力団)を面倒見よるとぞ、お前たちしまえかえすぞ」と居直りケツまくって捨てゼリフを吐いて去って行ったのです。大島保夫が一方的に近付いて来て去っていくまでの間は何一つ本当のことはありませんでした。大島保夫は最初から懲役か大喧嘩になることを承知の上で、腹をくくって徹底的に潰しにかかったのです。遅かれ早かれ同じ結末を迎える訳ですから、大島保夫は最初から藤原定司を連れて来て講釈を叩くだけ叩いたら良かったのです。

平成10年12月に久保田俊博から「大島さんが正光ちゃんと忘年会をしたい。」と言うとるよ。と連絡があったので忘年会を受ける事にしました。メンバーは大島保夫、久保田俊博、原雅彦と私の4人で中洲(福岡市博多区中洲)でやる事になったのです。最初の店は久保田俊博の彼女が勤めている店で酒などを飲んでいましたが店を変える事になったので二軒目は原雅彦の行きつけの店に行って酒を飲んでいたら大島保夫が「バカラに行くばい。」と突然久保田俊博、原雅彦に言い出しましたので私が「今日は忘年会だから酒を飲みましょうや、警察に捕まったら大変な事になるからやめときましょうや。」と言ったので少し間があきましたが、また大島保夫がせかすように久保田俊博、原雅彦に言うものですから行く事になったのです。私はバカラ場には行った事はありませんでした。バカラ場に行く途中で大島保夫が久保田俊博、原雅彦に「ゼニばだしない。」と二人にせかすように言うものですから二人ともお金を出してましたので私も出しました。私は32万円だしました。4人あわせて70数万円でしたので大島保夫に「全部一回で賭けて帰りましょうや。」と言うと大島保夫は少しずつ賭けはじめ負けはじめると大島保夫は店の者に「イカサマやないかぁ〜」と因縁をつけだしたのです。結局4人は店から追い出されて「二度とうろつくな。」と言われて恥じをかいて久保田俊博の行きつけの店で酒を飲みなおす事になったのです。

忘年会に誘われた時期に大島保夫は私が福岡市城南区友泉亭の4LDKのマンションに一人で生活をしている事を知って「一晩20万円支払うけん博打場に使わせてくれん?」と言ってきましたが断りました。それで大島保夫は博多駅前にある日航ホテルで博打場を開きました。大島保夫から博打の誘いを受けましたが断わり続けたのですが、大島保夫が「正光ちゃんが来てくれると顔が立つけん。」としつこく言うものですから日航ホテルにいきました。和室の二間の部屋で博打をやっていました。そこには久保田俊博、原雅彦と二人の男がいました。しばらく見ていると大島保夫が隣にきて「正光ちゃんあの人は鹿児島の人ですたぃ自家用ジェット機で博多に博打を打ちにきよんしゃとですよ」と話しをしてたので私はその男の顔をおぼえていました。福岡市中央区薬院(西鉄薬院駅近く)にしろやまの湯と言う銭湯があったのですが、そこで二度見かけたのです。年齢は当時五十代後半、身長は160cm後半でやせ型の色黒のつり目。一度目はサウナ部屋にいました。二度目は玄関でしたが髪はねぐせがつきスリッパでした。大島保夫が近づいてきて平成11年になってからは会社がおかしな方向に行く感じがしていました。それで倒産する2か月前の平成11年3月19日に会社を辞めて調べる事にしたのです。退職後も大島保夫から連絡があり、大島の会社(南区野多目)に呼ばれて様子見の話を聞かれていました。大島保夫が手が付けられない状態にしていたので、整理するのに時間がかかりましたが、福岡地方検察庁、福岡県警などに、西正建設の倒産の経緯を分かってもらうことが出来ました。また大島保夫に一方的な原因があることも分かって頂きました。

(株)西正建設関係者数名
大島保夫はなんも悪くはされとらんとに、最初からホラばっかり吹きまくり、つまらん事ばっかりして、しまえには居直りケツまくって捨てぜりふをはいて去って行った事は、(株)筑紫野建設の久保田俊博やらの話を聞いて確認は取れとります。これまでの整理をするのに時間をとられましたが、あとの処理はそう時間はかからんと考えとります。また大島保夫、森永武彦、宮崎眞佐雄、田尻博、田中恒房、久保田洋司、倉重勝正らからペテンにかけられケツの毛まで抜かれ泣き寝入りしとる者もいる事も聞いとります。田尻博の生存は確認しとりません。久保田洋司の住所は福岡市南区柳河内2丁目2−41になっとりますが、まだ確認はしとりません。

福岡地裁で行われた西正建設の債権者集会に大島保夫のガキはチンピラ2匹引き連れて顔を出したことも確認取れとります。

大島保夫のガキを泳がしとりましたが、ほぼ身辺整理も終わりよります。
大島のガキにメッセージが届いたと判断しとります。

大島保夫恐喝事件求刑及び判決
平成23年2月15日 福岡地方検察庁
求刑 懲役4年

被告人 大島保夫「家庭も崩壊していて仕事も出来なくなった。適正な判断を望む。」

平成23年4月12日 福岡地方裁判所
判決 懲役2年6月執行猶予5年に処する

判決理由
大島は債権の回収に強く被害感情を持っていて、大島が債権回収を依頼さえしなければこの事件は起きなかったといえる。したがって大島の果たした役割も大きい。しかし大島は脅迫を行った場面には同席していない、また他の共犯者に具体的指示を出したことも認められない、これらの観点から大島の役割は最も重要とまでは言えない。
大島には6件の前科があるが30年以上前の古いものである。したがって更生の機会を与えるのが相当と判断した。

控訴審
大島保夫は否認のまま起訴され有罪判決を言い渡されましたが控訴審での実刑をおそれ控訴断念しました。

光洋電器工業(株)代表取締役 宮崎眞佐雄
西正建設が倒産した直後に西正建設の会社内に土足で上がりこみ、神棚を土足で踏み壊し家系図も処分したのは、宮崎眞佐雄がやっとりました。(西正建設から宮崎の自宅まで徒歩7〜8分)

株式会社藤原組藤原定司との関係
株式会社藤原組(福岡市東区箱崎6-11-34)代表取締役 藤原定司との関係は西原正夫が藤原組とは30数年来の付き合いをしていました。藤原定司と私は銀座(東京都中央区)で飲食をした事もありました。藤原定司の行きつけの店で、当時、中部地区の副会長の福建工業矢口社長(廃業)と、西部地区の副会長の平田建設平田社長(廃業)と、東部地区の副会長だった藤原定司と私の4人でした。矢口さん平田さん藤原定司は同じぐらいの年齢で3人とも東京の大学に行っており、3人は互いの名を「藤原よぃ、矢口よぃ、テイゾゥー(平田社長)よぃ。」と呼び合い三羽ガラスと言っていました。

矢口社長は私の事を(正光)と呼び、平田社長、藤原定司は(正光ちゃん)と呼んでいました。飲食中に藤原定司は私に「オレが社長になったのはな、オヤジが死んでからばぃ、社長になるまではマージャン、ゴルフ、酒ばっかりやったたぃ。オレげぇ〜も、アンタげぇ〜も、ふるかとやけん頑張ろうなぁ〜。」と話す仲の時もありました。

平成8年頃から藤原定司から頻繁に談合の指示を受けるようになりました。平成10年8月に福岡市南部建設課から発注になりました、一般県道 後野福岡線 電線共同溝建設工事(その2)を、藤原定司が西正建設にきて「福岡市南区野間にある、Y建設興業に落札させるから協力してくれ。」と言ってきたのです。藤原定司は指名も受けておらず話しがムチャクチャだったから西正建設が落札予定金額から7000万円をひいて落札したのです。説明は終わっていますが、福三商工、光洋電器工業はこの現場で詐欺を行っているのです。

平成10年10月に藤原組の大川常務から私の携帯電話に電話がありました。大川常務に携帯番号を教えた事などありませんでしたし電話で話しをした事など一度もなかったので驚きました。大川常務は「県(福岡県)に行ったらですなぁ〜あなたが博多で頑張りよぅ、って聞いたからどこの工事をお願いしとるとですかぁ〜?」との用件でした。私は平成10年12月に福岡県流域下水道事務所から甘木幹線が3工区、夜須幹線が2工区の合計5本の下水道工事が発注になる事は事前に知っていましたが、まさか名前が出ているなどとは思ってもいなかったので、逆に大川常務に「その話しは本当ですか?」と尋ね返すぐらいでした。大川常務は「本当ですよ、頑張って下さい。」と言われて電話を切られたのです。

同年11月中旬頃に、福岡県流域下水道事務所から夜須幹線6工区の入札指名通知の連絡が入りました。喜んでいたら藤原定司から電話があり「オレげぇ〜が行くけん、アンタ下請けしたらよかろうが。」と言ってきたので、藤原定司に「大川常務に話しを聞いてくださいよ。談合する訳にはいかんですよぅ。」と言ったのです。藤原組も夜須幹線6工区の入札指名を受けていたのです。藤原定司が会社にきなぃ。と言うので会社に行くと、藤原定司は「オレげぇ〜は、福岡県の指名は自由自在になるとばぃ。サンセルコ(ホテルニューオータニ博多隣)のナラザキにも話しはついとるし、タケイ(福岡県甘木市、平田組)にも話しはついとるけん。オレに任せときない。」と言いましたので、私が「大川常務から話しは聞いてあるでしよぅ。談合する訳にはいかんですよぅ。」と言い、また説得しましたが藤原定司は聞きませんでした。それで私がバラ(談合せずバラバラ。)で行きましょう。と言って帰ったのです。

その後、藤原定司は地場大手建設会社の副社長のところに行って、藤原定司は副社長に「夜須幹線6工区は、平田組の会長が博多のモンにセットしとりますから、もめよったら行儀の悪か、と思われますから自分が行きます。」と許可をもらいに行ったのです。副社長からは「そんな話しやったら、そげんしとかなたぃ。」と言われておりますが、しばらくして藤原定司の作り話しだった事だと分かったのです。それで藤原定司は入札前日に、西正建設以外の夜須幹線6工区の指名業者を甘木土木事務所(福岡県甘木市)に集めて談合をしょうとしたのです。他の業者から「藤原が甘木土木事務所で談合をしよりますばぃ。」と聞いたので、すぐ甘木土木事務所に行くと、藤原定司は来ておらず大川常務がいました。大川常務は、私が現れると、驚いた感じと、気の毒そうな感じでした。私が腹を立てていた事に気づき、大川常務は「社長と話しをしてくれんねぇ〜」と言って藤原定司に電話をかけました。藤原定司は「すぐに帰れ、言う事を聞かな仕事のできんごとなるぞ。」と言い出しましたので、口論になりましたが結局大川常務が引き上げる事になったのです。大川常務が部屋から出る時に、私を部屋の外に出して「頑張って下さい。」と言われて大川常務は背広の内ポケットから手帳を取り出して、夜須幹線6工区の入札金額を書いたページを見せてくれたので、手のひらに書き写したのです。

部屋に戻ると、今度は日本水道株式会社、神崎組、梶原組の3社が受注を希望したのです。時間ばかり過ぎ決着がつかず、いつの間にか私が仕切り役になったのです。3社とも私に一任するとの事でしたから、日本水道、神崎組のどちらかが辞退するように言いました。すると日本水道の浦中氏、神崎組の営業の2人は甘木土木事務所から出て行き、どこかに行きました。1時間をすぎた頃2人が帰って来て、神崎組が辞退したので、浦中氏、梶原組の社長を個別の部屋でそれぞれの事情を尋ねたら浦中氏は「受注しないと九州支店がなくなる。」梶原社長は「地元だから譲られなぃ。」でしたから、元請けを日本水道に決め、浦中氏に落札金額の95%で、梶原組に発注するように言ったら、浦中氏は了解しましたので、梶原社長に10%を引いて落札金額の85%で西正建設に発注して下さい。と言うと了解しましたので談合は終わりました。

浦中氏が「西正さん入札金額はいくらにしましょうか?」と言うので手のひらの金額を見せて「これから60万円を引いて入れて下さい。」と言いました。また浦中氏は「フダ(入札書)はどうしましょうか?」と言うので「フダは現地のやり取り、と各社に連絡されたらいいです。」と言いました。この件で藤原定司は大恥をかかされた、と噂が流れたのです。これが西正建設が倒産する半年前の事でした。夜須幹線6工区の入札日に夜須幹線5工区の入札もありました。落札したのは平田組(福岡県甘木市)でした。その後、藤原定司と再会したのは大島保夫が西正建設が倒産する数日前に焼肉屋に呼び出された時でした。また、大島保夫は藤原定司ともめていた事は知っていたのですが、大島保夫と付き合いをしていた時は、大島保夫は藤原定司の事を口にしませんでした。藤原定司の親父さんも福岡市土木建設協力会の会長でした。藤原定司は公共工事を自分が支配するのが当たり前のようにしておりました。談合の指示に従わない業者に対しては、西正建設でしたようにいろんな方々に、作り話しの根回しをしては、落とし入れ工事を与えないようにておりました。

福岡建材株式会社代表取締役、樋口敏明の事件
藤原定司、大島保夫、宮崎眞佐雄、田中恒房、久保田洋司、倉重勝正らとの一味である、福岡建材株式会社代表取締役、樋口敏明ですが、福岡地方検察庁に提出しております、(株)西正建設の倒産の経緯で分かる通りです。樋口敏明は西正建設から金を騙し取るために偽の売掛金元帳(平成10年7月〜平成11年4月)を作成しておりますが、私は樋口敏明には平成10年7月から代金は支払っております。私は、西正建設倒産2ヶ月後に建設会社を設立して、7億円の下水工事の下請けをさせて頂き、その工事代金から福岡建材(西正建設支払い分)に元請けから支払いをしてもらって、樋口敏明にお詫びもしているにもかかわらず、また西正建設に債権届けを出し二重、三重も金を取られました。樋口敏明も金をネコババしたい気持ちは十分にわかりますが、ほどほどにしてくれれば良かったのですが、喧嘩の元だけを作られました。樋口敏明に一方的な非があることは事実です。今回、樋口敏明に過去に罪を犯した事の証拠を送っておりますので、樋口敏明からお詫びの電話があるのじゃないか、と西正建設関係者は考えていましたが、樋口敏明からの連絡はありませんでした。樋口敏明からお詫びの電話があれば話し合いに応じる考えでした。平成10年に大島保夫から大島組のゴルフコンペに呼ばれた時に、樋口敏明は「ヤスオさんとはとても久しい、よきはからいをお願いしたい。」と普段、言わない事を言っていましたから、樋口敏明も面白半分やったのでしょう。また、時効が成立して警察に逮捕される事がありませんので、樋口敏明は、ほったらかしにする事を考えたのでしょう。樋口敏明は福岡市東区東浜に産業廃棄物処理場など持っており、車は高級外車ベンツに乗っておられますが、やはり金はペテンになってもほしかったんです。

高橋博高との関係
高橋博高は、西正建設内の首謀者です。西正建設には倒産するまで、25年ぐらい現場で働いていました。西正建設に入社する前は、舗装会社を経営していましたが倒産させて、西原正夫の知人の紹介で入社する事になったのです。西原正夫からは、子供同様に可愛いがられていたのです。平成10年8月に、西原正夫の運転手の方が、高齢で退職されたので、高橋博高が運転手となったのです。高橋博高は、西原正夫の雑用と送り迎え等の、運転だけが仕事でした。ほとんど、昼食後に西原正夫を自宅に送り、仕事は終わっていましたが、西原正夫が入院中は話し合い手として、夕方までいる事もありました。高橋博高の給料は銀行から提出してもらった資料の通りです。高橋博高の父親が亡くなった時に、葬儀代金100万円を西原正夫が出しております。高橋博高が、西正建設の資金繰りの為に出した、としている850万円の経緯ですが、西正建設の会社の事務所には西原正夫、高橋博高、福田道子と私の4人でしたが、時々、西原正夫の次女がアルバイトに来ていたのです。平日は午前8時から、西原正夫にいろんな事を報告して、報告が終わったら、私は現場や営業に出ていたのです。西原正夫と、私が不在の時に、次女が手伝いに来ていた日、高橋博高が「○○ちゃん、社長から、お金を用立てるように言われたから、ウチのが持ってくるから、社長の机の中に入れておいて。」と言われ、高橋博高は現場に行ってきます。と会社を出て、入れ違うように高橋博高の妻(高橋恵美子)が金を持ってきて、次女に渡したのです。高橋博高は10分もしないうちに帰って来た、と次女は説明しました。次女は、高橋博高の事を信用して、高橋博高の言われた通りにしたのです。この件は、倒産後に分かった話しで、私が平成12年3月9日に突然、高橋博高の自宅に行って高橋博高に、いろんな話しを聞く中の、ひとつとして問い詰めたものですが、喧嘩になると思ったのか高橋博高は850万円はなかった事にして、給料などの配当だけを受けているのです。西原正夫は、高橋博高にお金を用立てるような事をさせた事はありません。その後、西正建設関係者3名と、高橋博高の母親に、高橋博高が西正建設でした事などを話しに行ったのです。高橋博高の自宅の一軒隣が、母親の自宅でした。母親に話している時に、高橋恵美子が腕組みをしてやってくるなり、「被害届けは、受理されとるとね。本家まできてから。」と、目を吊り上げて言っているうちに、お巡りさん達、数名が来たのです。近くの交番に行って説明をしたら、分かってくれました。その時、高橋博高は、帰って来ませんでした。高橋博高の自宅では話しができない、と判断して高橋博高が夜間作業に行っている事が分かっていましたから、西正建設関係者3名が、現場に行って高橋博高を問い詰めました。高橋博高が開き直りましたけど、高橋博高は娘も夜間作業に連れて行っていたので3名はとりあえず引き上げて来たのです。債権一覧表と高橋博高が解雇予告手当で受け取っている616,000円の証明書を3名は持っていたのですが、高橋博高に見せずにいたら、高橋博高は850万円も出したと、言いきっていましたが、話しだけ3名は聞いて来ております。
また、西正建設倒産後、高橋博高は(有)シリウスを設立しました。

福田道子との関係
福田道子は、西正建設の倒産まで12年間ぐらい事務員として働いていました。福田道子の入社時の面接は私がして採用を決めたのも私でした。福田道子には旦那はおらず、子供2人(男の子1人、女の子1人)と、当時、福岡市城南区別府団地で生活をしておりました。高橋博高らとの共謀者で、手形を乱発したり、伝票等を改ざんしている事は、福田道子の筆跡と同じ物である事が分かります。西正建設倒産後、西原正夫の、次女宅に電話があり、「弟の紹介で再就職したのよ、○○さん、西正建設の破産はどうなっているのぉ?!」と、たびたび電話があっていたのです。平成12年3月19日に、高橋博高のところに行き、私は自宅に帰って高橋博高の自宅兼事務所に電話をしたら、高橋恵美子が出て「なんか言いよるぅ〜」と、とぼけた言いかたをして、福田道子に変わったのです。私は福田道子の声を聞いて驚きました。この件を、西原正夫の次女に報告すると「ウソォ〜。」と、やはり驚いていました。
平成12年3月19日に初めて、福田道子が高橋博高の会社にいた事を次女は知ったのです。福田道子の娘が平成10年頃に、西正建設に出入りしていましたので、福田道子の娘に話しをしよう、と思い、福田道子の娘が勤めていた幼稚園に電話したら娘は興奮して電話を切りました。その後、福田道子の弟と名乗る男から電話があり、福岡市中央区大濠にある大濠公園にあるレストランに呼び出されました。行ってみると弟は、極道1人を連れて来ました。私が弟に「高橋博高を知っとるね?」と、尋ねると弟は「知らない」と答えましたので福田道子が西正建設でした事などを話しをすると、2人は特別に何も言わずに帰ったのです。

藤田伸也との関係
藤田伸也(ふじたしんや)も、私が、仲人を務めました。藤田伸也は一度、西正建設を辞めております。藤田伸也の妻も、元、西正建設の事務員でした。藤田伸也から仲人の相談があった時に、私は前妻、娘さんの事などを知っておりましたし、藤田伸也の自宅にも泊まりに行った事もあって、仲人などを受けられるはずはなかったのですが、藤田伸也が、「嫁さんの両親は、嫁さんが小さい時に離婚されて、オヤジさんが是非、仲人をお願いしたぃ。」と、言われとるから引き受けてくれ、と言われたので仲人を務める事になったのです。藤田伸也の妻の父親(福岡市東区舞松原在住)は貿易会社を経営しており、新婚旅行はポーランドに行くと、その時は言ってました。大島組、大島保夫に水道工事を発注していた現場監督をさせていましたが、大島保夫と共謀して不正を行っていた事は盗聴していた会話から分かる通りです。盗聴の会話で藤田伸也が実行予算などと言う事を言っていますが、藤田伸也は実行予算などを作成する能力はありませんでした。

株式会社筑紫野建設 代表取締役 久保田俊博との関係
久保田俊博は、大島保夫の連絡役でした。久保田俊博と久保田のお袋さんに話しをしておかないといけない、と思って平成12年12月27日に、久保田俊博の会社に行ったのです。2日前に電話して事務員さんに、「27日に行くので、久保田俊博と、お袋さんも居るように伝えて下さい。」と、言っておいたのですが、私は久保田はいない、と思ってましたので知人を車に乗せたまま会社に行くと、お袋さんだけでした。大島保夫のところに逃げ込んでいると思い、すぐ大島保夫の会社に行くと、大島保夫の車で久保田が横に乗って大島保夫が運転して出かけていました。大島保夫は私達の事を気づいていました。久保田俊博のお袋さんは私の事を、「正光君」と呼び、私は「おばちゃん」と、呼んでいました。その後も、西正建設の関係者3名が久保田俊博の自宅兼会社に行きました。大島保夫を紹介した事や、大島保夫が居直っていた事などを書面にして、久保田俊博に署名させようとしましたが、久保田俊博は認めましたが、署名はしませんでした。お袋さんが、心配して3名に出前の寿司を用意したりするものですから、3名は寿司をご馳走になり帰ってきたのです。また、久保田俊博は私に「大島さんのところには、2、3日に一回は顔を出しとるけど、いつも大島さんは、正光ちゃんの事が、大好きで、大好きでたまらん、と言うからヤキモチをやこうごとある。」と言っていました。私が出張で市外にいた昼に、久保田俊博から電話があって、「正光ちゃん10万円借してくれん?」との事でしたから私が、「夕方しか帰らんよぅ〜、夜は中洲で会食があるけど、どうする?」と、言うと久保田俊博は、「自分の女に、自分から10万円を借りとったから、返しといてぇ。」と、言って渡しとってくれん。と、言うので、言う通りにしてあげました。久保田俊博の彼女は、中洲のクラブで働いていました。福岡市南区平和5丁目に住んでいましたが、家賃は彼女に半分出させていました。久保田俊博は代表取締役と、なっていますが、お金の自由はならず、株式会社筑紫野建設は会長のお袋さんが采配されておられました。私は久保田、大島、原雅彦を麻雀や飲食に誘った事はありません。久保田は麻雀をしている途中で夜中の12時なると、麻雀パイを投げ捨てるようにして「ゴメン、女を迎えに行かないかん。」と言って帰っていましたが、たまに大島が「久保ちゃん、女ばここに、こらしなぃ。」と言って彼女が、麻雀屋にきていた事もありました。また久保田俊博は「昼からは女のところで寝ころがっとぅと」と言っていました。